三善晃作曲・谷川俊太郎作詩の合唱曲。この曲は日本の合唱界隈ではかなり有名で、合唱コンクールでもしばしば演奏される。理由はよく分からないけれど昔からなんとなくこの曲はいいな〜と常々思っていたのだが、この機会にこの曲の魅力を私なりの解釈で述べる。
冒頭からこの曲では生きるという事が「〇〇であるということ」といった形式で並列的かつ重層的に構成されている。その「〇〇である」のフレーズをそれぞれのパート毎に分担することで、そのフレーズごとに表現の幅を生み出し、観客それぞれが持つ自分の「〇〇である」瞬間を回想させる。
そして、曲が進行するにつれて、同じフレーズを全員で同時に歌う事で強い感情の盛り上がりが表現される。(動画では1:39の部分など) よって、それらの「生きているということ」というフレーズが観客それぞれの無数の「〇〇である」の回想が一度にやって来るような深い感動を与える。私はこの「生きているということ」というフレーズを聞くだけでどこかで強く感じた思いが不意に溢れ出てきて涙が出そうになる。
また、この曲にはその感動を深めるための更なる工夫がある。曲全体を通して悲愴的なピアノのメロディーやハーモニーで包み込まれている。そして、曲中で「〇〇であること」の並列表現が積み上げられるに連れて、悲愴のイメージから生きることへの熱意や厳しさのようなイメージがだんだんと込み上がってくるように描かれる(2:10~2:30の部分など)、一方で、動画の2:30のようにその厳しさのイメージが一瞬にして優しさや愛おしさのイメージに劇的に切り替わったりする。このようにして「生きる」に対しての辛さや喜びなどのイメージが絶え間なく流動的に描写されることで「生きる」の意味合いをより深めているように私は感じる。
だから、同じ「生きるということ」というフレーズでも観客の心境や経験によって全く違う印象を与えられる。私自身、この曲はかなりのお気に入りなのでYoutubeでも良く聴くのだが、その時の気持ちによって感じ方が全く変わったりする。このように、観客の心情や経験などによってその感動の中身の意味合いは全く変わるが、生きとしいける人間達(特に一生懸命に生きてきた人々)を感動させる曲なのだと考える。
動画は「東京混声合唱団The Philharmonic Chorus of Tokyo」様から拝借いたしました。東京混声合唱団では2018年からYoutubeに動画を載せられています。どの作品も天津亜合唱団とは違ったとてもクオリティーの高いパフォーマンスをされています。