前書き
所々厳しい感想を書きますが、演劇を初めて10年も経っていない若僧の独断と偏見で書いていることをご承知の上で読まれて下さい。逆に、この感想に対して意見や批判等があれば各々Twitterやブログ等で発信して頂きたいですし、是非それを拝読したいです。基本的にはロクコレを通して、参加団体の方々が演劇に意欲を持って、福岡演劇界が盛り上がる事を期待しています。
公演について
【公演名】
『ソクラテスの弁明』
染矢は2公演目 12月17日 19時の会を観劇。
場所はぽんプラザホール。30席くらいの劇場。(当日は8割くらいの埋まり具合でした)
1演目、70分の公演。
ソクラテスの描き方
役者は女性が3人。基本的にはプラトンの書いた「ソクラテスの弁明」にある文言から抜粋してソクラテスのセリフをそれぞれの役者が話すという流れだ。それは会話というよりも、3人で声を合わせて観客(裁判員)に対して話しかけたり、3人それぞれが別々に違うソクラテスの言葉を話したりする形だった。最早、言葉を聞かせるというよりも、話している表情や雰囲気を観客に伝えるという感じだった。
その中で「ソクラテスはこういう心情だったのではないか?」逆に「民衆からソクラテスはこう思われていたのではないか?」という想像が演劇という形式で多様に表現されていた。大きく分けて、以下の5つのソクラテスの心情が舞台表現という形で描かれていたように私は思った。
・不敵に笑いながらも裁判に挑むソクラテス。
・弁論の神として畏怖されるソクラテス。
・死刑を免れる為に必死に弁明するソクラテス。
・死刑を宣告され、恐怖に慄くソクラテス。
・死の恐怖を乗り越え、自身を有罪にした者をも受け入れるソクラテス。
本公演では、それぞれのソクラテスの心情描写が中々に上手く表現されていたように思う。特に、ソクラテスが死刑に処される寸前の弁明では、セリフを話すのとは別に、役者に小さな木片の上に片足で立つ、座る、などの制約が課されいて、役者の身体を極限まで追い込むという手法を取っていた。その追い込みによって、ソクラテスの焦燥が役者の肉体を通して生々しく伝わって来た。特に、沢見さんの木片から落ちそうで落ちないギリギリのせめぎ合いが良かった。また、それぞれのシーンでの身体・声の表現の幅が広くとても見応えがあった。
映像演出
また、プロジェクターで白と黒だけの波のような抽象的な映像を投影していたのだが、それがこのソクラテスの心理を映したようで、とても良い雰囲気を出していた。
一方で、文字を床面に映していることが何度かあったのだが、それが非常に惜しかった。特に、今回は、「ソクラテスが無罪であると思うものは石を投げろ」といった文言が投影されるのだが、その文字が役者の身体に被ってとても見えづらかった。少なくとも、映像を見やすくするために舞台を白色のマットか何かで覆うべきだったし、舞台客席を含めてもっと計算して設計するべきだったと思う。
そして、何よりも酷かったのは、プロジェクターのあまりにも激しい明暗(ポリゴンショック)の繰り返しだ。
少なくとも私は目を開けていられず、とても鑑賞出来るような状況ではなかった。しかも、その明暗は2分程度続いた。観客だけではなく、役者にも視覚障害が起こる可能性のある危険な演出だと思う。
前々から思っていたが、デイドリの公演では、見せ場となるシーンで音響機材が壊れそうなくらい大きな音を出したり、今回のように目も開けられない程、明暗転を繰り返したりするような過剰な演出がある。これらの演出はただの破壊行為、害悪でしかない。観客だけでなく、今後のデイドリの為にも一切辞めて頂きたい。これは私からの切実な願いだ。
総括
ともあれ、こういった役者を追い込んだ先に見えるものというのは、舞台でしか観れないし、そこに挑戦したのは良いことだと思う。この手法を使えば、ソクラテスでなくとも他の題材でも見応えのある舞台になると思う。逆に言えば、役者の体力や根性に頼る所が大きいので、何度も公演を繰り返すのは難しいだろうなと思う。今回、4度も演じられた役者さんたちは本当にお疲れ様でした。
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